人気スポット「ならまち」の外れ。ひっそりと佇む旅館に色濃く残る遊郭「木辻」の記憶

ならまちの成り立ち

近鉄奈良駅の南側に広がる「ならまち」と呼ばれるエリア。戦災をまぬかれた昔ながらの景観に雑貨店やカフェが溶け込んだ町並みは、いまや古都・奈良の観光スポットとなり、多くの人でにぎわっています。

そもそも、ならまちは奈良時代に権勢を誇った元興寺(がんごうじ)の旧境内が市街地化したところ。ならまちを構成する町々の名の由来を聞けば、なるほどと思うはず。たとえば、築地之内町(つじのうちちょう)はお寺の築地塀(ついじべい)があったところ、椿井町(つばいちょう)はお寺の行灯(あんどん)に使う椿油を造る職人が住んでいたところ、瓦堂町(かわらどうちょう)はお寺の屋根を葺く瓦店が軒を連ねていたところ、なんて具合(町名の由来には諸説あり)。

芝新屋町にある元興寺塔址。江戸末期に焼失し、現在は基壇と礎石が残っています。

ちょっと話は変わりますが、陰陽町(いんようちょう)は、かつて陰陽師が住んでいたところ。陰陽師といえば、かの有名な京都の安倍清明(あべのせいめい)を連想しますが、江戸時代までは奈良にも陰陽師がいたんです。ちなみに、地元の人は「いんよちょう」と縮めて呼ぶんですって。

陰陽町にある鎮宅霊符(ちんたくれいふ)神社は、陰陽師の神と仰がれる天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀っています。

泊まってみれば、気分はタイムスリップ!

さて本題は、ならまちのずっと南の端のほう。このあたりまで来ると、人通りもめっきり少なくなってきます。そんな東木辻町(ひがしきつじちょう)にある一軒の古い旅館がこちら。

立派な唐破風屋根のついた玄関。看板には「旅館 静観荘 SEI KAN SOU」の文字が。なんとも歴史を感じさせる佇まいが気になるこの旅館、もとは遊郭だった建物だとか。いったい中はどんな雰囲気なの? これはもう、泊まってみなくちゃなりません。こうして足を踏み入れた静観荘は、まさにタイムスリップしたような空間でした。

玄関を入ると、正面にある窓から中庭が見えます。

四方を建物に囲まれた中庭。写真左側の建物には濡れ縁があり、庭の真ん中に建物をつなぐ橋がかかるなど凝った造り。池には金魚が泳いでいました。

中庭に面した濡れ縁の手前にある手洗い場も、いいかんじ。

濡れ縁の先には、お風呂場があります。こちらは総タイルのお風呂。もうひとつあるお風呂は楕円形♪

部屋は畳敷きのスペースに板敷きのベランダが付いた昔ながらの造りで、くつろげます。こちらは、窓から中庭が見下ろせる部屋。

床の間の明かり採りの窓も、風情たっぷりのデザイン。

部屋に置かれていた古ぼけた鏡台も、部屋の雰囲気にマッチしています。

私はここに一週間ほど滞在したのですが、レトロな世界にどっぷり浸りつつ、快適に過ごすことができました。宿泊費は朝食を付けても一泊5000円程度とリーズナブルなのも魅力的です。
そんな静観荘の歴史について、オーナーの増森茂樹さんにお話を聞いてみました。

華やかなりし「木辻」の時代

昭和30年生まれの増森さん。「自分はここが遊郭だった時代のことは知りません。でも、生まれ育ったこの場所のことは、遊郭を経営していた祖父母からいろいろと聞かされていました」と言います。

かつてこの界隈は「木辻」と呼ばれた遊郭でした。上は明治20年代のならまちの地図(『明治新刻 奈良細見図』部分)ですが、「遊郭」として斜線になっている部分が見えます。
木辻遊郭は、奈良時代に元興寺を建立した際、職人や人足たちをつなぎ止めておくために形成されたともいわれ、かなり古くから存在したことがうかがえます。江戸時代には遊郭20数軒、公娼200人超との記録があり、大正時代には遊郭42軒、娼妓は200〜300人がいたとか。今よりもずいぶん賑やかな場所だったようです。

増森さんが見せてくれた古い写真のなかに、静観荘の中庭らしき橋の上に、女性が立っている写真がありました。写真の下端には「岩谷楼庭園」の文字があります。
「現在の静観荘は、元は岩谷楼という遊郭でした。この建物は祖母の兄弟が大正15年に建てたもので、ちょうど今年で100年になるんですよ。木辻はたくさんの人が集まったところで、当時の岩谷楼には名の知れた歌舞伎役者なども遊びに来たそうです」

増森さんによれば、木辻の遊郭があった範囲は、現在の東木辻町から瓦堂町にかけての一帯。スーパーマーケット「ビッグナラ」のアーチがかかる辺りが、遊郭の入り口だったそう。
「木辻の遊郭では鐘の音で朝が告げられ、鉄杖をジャラジャラ引きずって回り夜を告げたとか。岩谷楼では玄関脇にバスの停留所のような小屋を作って客引きをして、お客が入るとドンと太鼓を打って知らせたそうです」

岩谷楼から静観荘へ。外国人に愛される宿に

昭和32年に売春防止法が施行され、岩谷楼は遊郭から旅館に転身することに。しかし、旅館業は簡単ではありませんでした。
「当初は24時間体制で、いつお客が来ても迎えられるよう交代で番をしていたと聞いています。当時のならまちには観光客などいなかったし、この辺りは遊郭時代と一転して静かになりました」
折しも日本は高度成長期で、宿といえばホテル全盛。旅館は見向きもされない存在でした。そこで目を向けたのが、外国人旅行客でした。

「当時の日本は、どこを見ても新しいけれど、同じようなものばかり。でも、奈良には古いものが残っている。観光客はみんなそれを見に来るのでは? そう友人に言われて、私もはっとしたことがありました」
昭和40年代にフランス人観光客がポツポツ泊まるようになり、以降、現在まで宿泊客はほとんどが海外からのお客様だそう。

今、この辺りには静観荘の他に遊郭時代の建物はほとんど残っていません。昭和40年代後半には、同じように遊郭から商売替えした宿もどんどん廃業し、建物も建て替えられたそうです。
「結局、宿はここ一軒だけがぽつんと残りました。いろんな人や時代の記憶がちりばめられた場所ですから、なるべく昔のまま、雰囲気を大事にすることは意識しています。ひっそりと静かに、町に溶け込むような宿でありたいですね」
そう語る増森さん。忘れ去られつつある時代の生き証人のような静観荘を、日々守り暮らしています。

中尾千穂

中尾千穂

編集者、ライター

神社、祭礼、工芸、着物など日本の伝統文化の分野で取材執筆活動を行う。海外サッカー雑誌の編集部に在籍した過去も。取材では京都・奈良・伊勢方面に頻繁に出没、プライベートでは島・半島巡りを好む。
中尾千穂

中尾千穂

編集者、ライター

神社、祭礼、工芸、着物など日本の伝統文化の分野で取材執筆活動を行う。海外サッカー雑誌の編集部に在籍した過去も。取材では京都・奈良・伊勢方面に頻繁に出没、プライベートでは島・半島巡りを好む。